2015年9月10日

商売繁盛の秘訣|デパートを発明したブシコーの革命的な手法

どうも!ブランドクリエイターの中江です。今回は、「商売繁盛の秘訣|デパートを発明したブシコーの革命的な手法デパートを発明したブシコーの革命的な手法」というテーマでお話していきたいと思います。

この前、仏文学者の鹿島茂さんの『デパートを発明した夫婦』という本を読んでいました。

この本は、19世紀半ばにパリで産声をあげた、デパートを発明したブシコー夫妻について書かれている本なんですが、内容がとにかく面白い。

現代にも通ずるブシコーが発明した革命的な商売の手法、革新的なアイディアだけではなく、デパートが社会に与えた大きなインパクトに対する考察も非常に面白い。

この本の著書の鹿島さんはこう断言します。

デパートとは純粋に資本主義的な制度であるばかりか、その究極の発現であると。なぜなら、必要によってではなく、欲望によってものを買うという資本主義固有のプロセスは、まさにデパートによって発動されたものだからである。(『デパートを発明した夫婦』鹿島茂)

つまりですね。ブシコーの革命的な手法によって生み出された、デパートの出現によって、「買う」という行為の在り方が大きく変化したんですね。

ブシコー以前の社会では「必要」に迫られて仕方なく何かを買っていたのが、ブシコー以降の社会では「欲望」(突発的な衝動)を喚起されて、楽しく何かを購入するという行為が生まれたというんですね。

特にこの「必要」という感覚ではなく、「楽しい」という感覚はセールスにおいては非常に重要なファクターの一つになっています。

というのも「必要」を満たしてくれる物というのは大量にあるわけで、それだけを満たしているだけでは、選ばれることはないからです。

例えば、タオルを考えてみましょうか。タオルなんてものは、今ではどこにでも売っています。タオルの必要性というのは「水分を吸い取ってくれる」ということでしょう。

でも、そんなものは安く手に入れようと思えば、100均で簡単に手に入ります。当然「水分を吸い取ってくれる」ということにだけフォーカスするだけだったら、当然、価格競争に巻き込まれます。

でも、逆に欲望を喚起して「使いたい!」と思わせて、高単価でタオルを販売することは可能なわけです。今治タオルなんかそうですよね。

オンラインショップを見てるだけで楽しくなりますし、100均よりも値段は高いですが、買いたくなるわけです。

b1

ブシコーが産み出した当時の革命的なビジネスの手法から、商売繁盛させるためのヒントも見いだます。

そこで、今回は、そんなデパートを発明したブシコーの革命的な商売繁盛の手法について見ていきたいと思います。

では、早速、始めていきましょう!

1.旧体制の商店とブシコー

まずは、ブシコーの革命的なデパートの手法をお話ししていく前に、ブシコーが登場する以前の19世紀前半までの買い物の様子を簡単に描写していきます。

1-1.買い物はイヤイヤするもの?

デパートの発明家ブシコーが登場する以前の社会では、買い物を「楽しい」とか「ストレス発散になる」という現代と大きく違い、買い物は「必要」に迫られた時にだけ起こり、むしろイヤイヤするものでした。

当時がどんな社会だったのかを描写すると、まず、一部の金持ちを除き、一般市民の交通手段は基本的に徒歩と限られていたため、買い物をするとなると近所の個人商店のようなところしか存在しません。

なので、商店同士の競争というものはほとんどないのと同じで、客を呼び込むためのディスプレイや顧客サービスも存在していませんでした。

ショーウィンドウがないのも驚きですね。中を覗くと、奥の方に、店主が構えるように座っているのが見えるだけ。

お客さんは、その店以外で買うという選択肢がないため、常に商人というのはできるだけ高く売りつけようと駆け引きしていました。今のように価格の表示もありませんでした。

そして、今のように入店の自由や出店の自由もなく、一度入ったら最後。店主に話しかけられ、必ず何かを買わざるを得ないという状況でした。

まぁ、今の時代ではこういうお店は少ないですが、常にお客さんからすると、「買う」という行為自体にストレスがかかっている状態でした。

1-2.マガザン・ド・ヌヴォテの登場

そして、その後、新しいタイプの商店である、マガザン・ド・ヌヴォテが登場します。このマガザン・ド・ヌヴォテは、女物の布地などの流行品を販売する衣料品店のことです。

これが従来の商店と何が決定的に違うのかというと、地域に根ざしたお客ではなく、不特定多数を相手にしたお店であるということです。

マガザン・ド・ヌヴォテには明るくて大きなショーウィンドウがあり、店内では棚にきちんと整理された商品が陳列されたり、価格も表示されていました。

これにより、お客さんの「買う」という行為に対する心理的なストレスは多少なりとも解放されましたが、退店の自由はなく、まだまだ「買う」という行為が「欲望」によって換起されるまでには至っていません。

1-3.アリスティッド・ブシコー

こんな社会の中、デパートを発明したブシコーは1810年に、ノルマンジーのベレームで、帽子屋の息子として生まれました。

ブシコー少年は地方の貧しい商人の子供だったので、一通り読み書きを覚えると、知り合いの商人の店に丁稚奉公に出ます。

彼は決して資本力が元々あったから、デパートという巨大施設を生み出したというわけではないんですね。彼は自分の才覚一つでのし上がっていきます。

ブシコーは18歳の頃、パリからやってきた生地の行商人と知り合うと、そのツテをたどって、パリにあるマガザン・ド・ヌヴォテの平店員として働くことを決意します。

マガザン・ド・ヌヴォテは、旧来の個人商店しか知らなかったブシコーにとっては、給料をもらった上で利潤追求の方法も学べる学校でした。

ブシコーはその後、妻となるマルグリット・ゲランという娘と出会い、結婚します。

そして、二人は貯めた貯金を、ジュスタン・ヴィドーという男からとあるマガザン・ド・ヌヴォテ<ボン・マルシェ>の共同経営を持ちかけられた際に使い、マガザン・ド・ヌヴォテの経営を始めます。

世界最初のデパートとされる<ボン・マルシェ>の原型はこうして生まれました。最初は従業員は12人で、売り場は4つで、年間売上額は約4億5200万円でした。

その後、ブシコーは革新的なアイディアで、このマガザン・ド・ヌヴォテをデパートにまで昇華させ、たった11年で、年間売上額を70億円にし、世界でも最大のデパートにしました。

2.ブシコーが発明したデパート商法

パリでも小規模な普通のマガザン・ド・ヌヴォテがいかにして、世界最大のデパートになっていったのか。

次に実際にブシコーが発明したデパート商法を見ていくことにしましょう。

2-1.薄利多売方式

ブシコーが採用した画期的な一つの手法には、薄利多売方式を徹底的に推し進めたことがあります。

薄利多売方式は他のマガザン・ド・ヌヴォテもやってはいたのですが、それは数を量産できる商品に限られていましたが、ブシコーはその範囲を品質の優れた高級品も含めて、店で扱う全ての商品の小売マージンを大幅に引き下げました。

一般の衣料品店では、三十パーセントから四十パーセントのマージンで売られていた商品が、<ボン・マルシェ>では通例二十パーセントから十八パーセント、純利益では四パーセントから五パーセントの薄利で販売されたのだから安いのは当たり前である。(『デパートを発明した夫婦』鹿島茂)

そうすると、当然、他のお店よりも安いわけなので、商品が飛ぶように売れ、回転効率が上がります。

通常であれば、仕入れには3ヶ月期限の手形を使っていたのですが、それが1ヶ月期限の手形になり、2ヶ月分の利息を浮かせることができて、それをさらに仕入れに使うことができました。

そして、通常であれば、3ヶ月などの長期手形を使用するには、納入業者を固定する義務があったのですが、手形が短期になったことで、こういう義務はなくなって、納入業者を複数から選んで競わせることができるようになりました。

ブシコーは納入業者を国内の業者に限らず、イギリスやオランダ、ベルギーにまで手を伸ばしたそうです。

複数の納入業者と契約しておくことで、お客さんの多様なニーズに応えられることができますし、業者間の競争による仕入れ価格の低下も期待できるというわけです。

今となっては、当たり前になった方式ですが、この原型を確立したのはブシコーなんですね。

2-2.イベント

ただ、この薄利多売方式にも欠点があって、それは何かのアクシデントで、商品の回転効率が落ちてしまえば、たちまち悪循環が起こってしまうことです。

というのも、短期の手形を使っていたので、商品を仕入れてすぐに販売して、という自転車操業だったわけです。

当然、流行品を扱っていれば、流行が過ぎ去ってしまえば、在庫が残るかもしれません。

そこで、ブシコーはこの定期的に発生する在庫を一掃するために、バーゲンセールという手法を徹底的に行いました。

<ボン・マルシェ>では、それぞれの季節商品の在庫期間を三ヶ月と限定し、二ヶ月間の通常価格販売の後、残りの一ヶ月には、まず三十パーセント引きから始め、ついで五十パーセント引き、そして最後の一週間にはさらに値引き率を高め、全ての商品が完全に売り尽くされるようにした。(『デパートを発明した夫婦』鹿島茂)

ただ、ブシコーが経営していたボン・マルシェは、当初は今のデパートとは違って、衣料品が売上のほとんどを占めていたため、一年間の間にどうしても売上が落ち込む時期があります。

パリでは特に人がいなくなる8月と2月はどうしても回転率が落ち込みます。

そこで、ブシコーは天才的なアイディアを思いつきました。それは、エクスポジション(展覧会)という、あるコンセプトにそった大売り出しをすることです。

例えば、ブシコーは回転率が落ち込みはじめる、年頭のバーゲンの後に、リンネルや綿布などの白生地を使ったワイシャツ、ブラウス、下着、シーツ、タオル、テーブル・クロスなどの「白物」を大売り出しをやりました。

店内は本当に「白物」一色という様子で、そこには銀世界が広がっていたようです。『ボン・マルシェ小史』にはこの当時の様子がこう書かれています。

一時間ごとに、この雪の広がりは大きさを増し、四方に伸び、より広い面積を占めていきます。真っ白な幅広の布が天井から垂れ、階段の手すりの周りに巻きつくかと思えば、テーブルの上にも白い布が広がり、ところどころで幅広の高い布の筒が柱を支えるように置かれています。(『ボン・マルシェ小史』)

19世紀にはまだろくな洗剤もなく、洗濯も原始的な方法だったので、真っ白な衣料品を身につけているというのは、それだけで贅沢でした。

なので、ボン・マルシェの白物セールは、良質の白物を奉仕値で手に入るということで、フランス中の人が買いに来たそうです。

ブシコーはこのイベントを皮切りに、年間を通して、定期的にこのような大売り出しや催し物を開催し、商品の回転率が落ちないようにしました。

ブシコーが上手いのは、さらにこういうイベントには、必ず、高品質で安い値段の「目玉商品」を思い切って何点か用意したことです

お客さんは、これを目当てにとにかく、店に足を運んでくれるので、店に足を運んでくれたらこっちのものというわけです。

実際に、この目玉商品に釣られてやってきた人たちは、商品が豪華に飾られている様子を見て、平常心を失い、購買意欲を掻き立てられ、他の商品もどんどん買っていくというわけです。

2-3.返品可能

当時、ブシコーが画期的だったのは、常々店員に「無理やり商品を押し付けて買わせるようなことをしてはならない」ということを徹底していたことでした。

個人商店やマガザン・ド・ヌヴォテであれば、基本的に返品の対応は受け付けていなかった。マガザン・ド・ヌヴォテでは「返品可」と書かれていたところもあったが、実際に返品するとなると、良い顔はせずに、現金を返却はせず、他の商品などで対応していた。

ブシコーはそれに対して、未着のものであれば、どんなものでも即座に現金で返品可能としました。ブシコーがなぜこのようなリスクの高そうな方法をとったのか。鹿島さんはこのように解説します。

デパートにとって、同じ客に何度も足を運んでもらえるようにすることこそが、最も大切な財産である以上、たとえ返品による損害が出ても、それと信頼を秤にかければ、客の信頼を得ることのほうがはるかに重い、つまり長い目で見れば、その方が儲かると判断したのである。(『デパートを発明した夫婦』鹿島茂)

地域密着型の個人商店の時代では、お客さんには他の店に行く選択肢がないので、勝手に来ました。しかし、交通網が整備されると、お客さんから商店を選ぶという時代に切り替わりました。

そういう時代に切り替わった時に、ブシコーは、昔の「いかに商品を高く売りつけて、利益を稼ぐのか」という古臭い手法から手を完全に切り、「信頼こそが最高の資産なんだ」という考えを持って、経営したのは本当に先見の明がありました。

これは今の時代にも当てはまります。短期的な利益だけを考えて、お客さんとの信頼関係構築・維持を怠れば、「何度も店に足を運んでもらえる」というような状態は生まれません。

ブシコーはこの思想を徹底していました。

買い物を長時間していると、喉が乾くので、お客さんに無料のビュッフェがあり、飲料(水やお酒など)を提供し、無料で読書室も解放していました。

そのほかにも、当時ではかなり珍しいことだったんですが(19世紀ですからね)、清潔なトイレも提供していました。

2-4.建物

ブシコーのボン・マルシェがマガザン・ド・ヌヴォテではなく、デパートとなっていくのは、巨大店舗の建設から始まっていきます。

巨大店舗を設営することができれば、現代のデパートのように多種類の商品を大量に売るという環境が整備することができます。

ブシコーは、バック街、セーヴル街、ヴェルポー街、バビロン街に四方を囲まれた、五千平方メートルに及ぶ一区画に、巨大店舗を建設することにしました。全ての工事が終了するのに、17年以上かかったそうです。

b2

ブシコーは、ここに未だかつて誰も想像しなかったような商業空間を超越した、スペクタクル空間を創造しようとしました。

設計を気鋭の建築家のボワローに、工事をエッフェル塔の建設者であるギュスターヴ・エッフェルに依頼し、当時では珍しかった、鉄とガラスを機能的に使った建造物を作り上げていきます。

(画像出典:http://bit.ly/1g8xJmF)

鉄骨を使用することで、天井をガラスにした広大なホールを作り出すことが可能となりました。鹿島さんはこのブシコーが創出したスペクタクル空間の効果を以下のように解説します。

万国博覧会のパヴィリオンと同じように、鉄骨とガラスでできたこの<ボン・マルシェ>のクリスタル・ホールは、パノラマやジオラマのような光学的イリュージョンを多用したスペクタクルと同様の効果を客に及ぼすものと期待されたのである。仰ぎ見るほどに高い広々としたガラスの天窓からさんさんと降り注ぐ眩いばかりの陽光は、店内いっぱいに展示された目にも鮮やかな色彩の布地や衣服を、使用価値によって判定される商品から、アウラに包まれた天井的な何物かへと変身させてしまう。そして、客はそこが商店であることをすでに忘れている。(『デパートを発明した夫婦』鹿島茂)

この時点で、ボン・マルシェに行くことは、ディズニーランドに行くような、胸のワクワクするような体験となり、買い物は、「必要」を満たすためだけの行為ではなくなって、「欲望」(楽しいなど)を喚起されて、起こる行為になっていきました。

もちろん、建物内の商品ディスプレイにもこだわっていて、「店内に一歩足を踏み入れた客が思わずハッと息を呑むような」レイアウトが意図的にデザインされていました。

単純にお値打ち価格の商品だけではなく、中産階級ではなかなか手が出ないような高級品をも店頭に並べることで、デパートという存在を憧れにまで昇華しました。

2-5.従業員

ブシコーは従業員がいかにモチベーションを高めて、販売に貢献してくれるのかという問題にも熱心に取り組んでいました。

ブシコーは独立売り場制を採用し、各売り場にはそれぞれ責任者を配置し、固定給にプラスして成果に応じて歩合給が発生するという仕組みでした。

責任者に仕入れやディスプレイや価格の決定や採用まですべて一任されていました。当然、在庫が残れば、給料は上がりませんし、翌月からの仕入額を減額させられます。なので、責任者は躍起になって頑張るわけですね。

それは、責任者ではなく、従業員もそうです。従業員もゲルト制という、固定給+歩合給という仕組みを採用しています。これは従業員のモチベーションをかなり喚起しました。

ただ、そうなると、お客さんの取り合いになることが考えられますが、それは機会を均等に与えることでそれを防ぎ、さらに「何が何でも売ってやる」という態度に出た場合は、責任者からすぐにクビにされるということで、ブシコーの哲学も一貫した社員が育っていきました。

何しろ、このゲルト制では固定給は、最低限生活できるレベルでしたので、結果が出せなければ、給料はあまり入ってこないので、このゲルト制だということを理解した、販売のプロたちがボン・マルシェに集まるようになりました。

ブシコーはこういった販売のプロたちに、ボンマルシェの哲学を反映したマニュアルを配り、従業員教育も徹底したことで結果を出していきます。

さらには、結果を出してきた従業員が売り場の責任者になれる昇進システムや、当時ではあり得なかった福利厚生(無料の独身寮、無料の社員食堂、退職金や年金)の充実度も、ボンマルシェへの帰属意識を高めることに繋がりました。

3.教育装置としてのデパート

ブシコーが偉大だったのは、単純に現代の礎となるような合理的な販売システムを発明したことがあるからだけではありません。

ブシコーは、自らのユニークなコンセプトを掲げ、コミュニティ化を図り、ブランド化させるというステップを自分のビジネスに取り入れていることです。

3-1.ユニークで明確なコンセプトの提示

お客さんが自由にお店を選ぶことができる時代になっては、必ず選ばれる理由がなければ、価格競争に巻き込まれていきます。

この前、とあるドキュメンタリーで、中小規模のスーパーの生き残り戦略の特集をしていていました。

大抵の中小規模のスーパーは、資本力を持った大規模のスーパーがその地域に参入してくると、すぐに採算が取れなくなり、撤退する様子が語られていました。

これはなぜかというと、大規模のスーパーは、仕入れの量が中小規模のスーパーとは桁違いなため、同じ商品を販売するにも価格を下げることができるからです。それでお客さんが流れてしまうのです。

それに対して、巻き返そうと、中小規模のスーパーが同じように、値下げしても結局は、体力がある方に軍配が上がるのです。

でも、中小規模のスーパーでも、買っているスーパーもあります。株式会社いちやまマートです。開店前には毎日、大勢の行列ができていて、売上も好調です。

いちやまマートは、「安さは一瞬、健康は一生」というコンセプトを掲げて、自社ブランドを立ち上げ、添加物を使わない本当に品質の高い商品を目玉商品として、商品の中で加えることで、大手スーパーが出している商品の価格の3倍以上もあるものが飛ぶように売れていく状態を実現しています。

これは大規模のスーパーでは真似できない、いちやまマートにしかない価値を生み出していることで、地元のお客さんから多くの支持を集めていました。

その「そこにしかない価値」を生みだすための原型となるのが、「一瞬で人を惹き付けるブランドコンセプトの作り方」でも話しているコンセプトです。

今も昔もコンセプトがなければビジネスなんて、長期的にブランドとなるようなことはありません。

ボン・マルシェも最初は、小規模なマガザン・ド・ヌヴォテの一つに過ぎませんでしたが、あるコンセプトを掲げて、そのコンセプトに沿って、ビジネスを運営したことで、世界最初で最大のデパートを実現させることになりました。

そのコンセプトとは「アッパーミドルのライフスタイルを目指せ!」です。

ブシコーの時代は、経済が発展し、新たに新興中産階級が多く生まれていった時代でした。戦後の日本みたいなもんですね。

このコンセプトの提示によって、マガザン・ド・ヌヴォテが主として扱っている衣料品だけではなく、「アッパーミドルのライフスタイルに必要なもの」を全て、提供するというスタイルが可能となりました。

マガザン・ド・ヌヴォテではなく、デパートになったんですね。鹿島さんの本にはその様子がこのように書かれています。

1872年の新館開店以後は、既製服の売り場が大幅に増えて、紳士用スーツ、婦人用スーツ、ドレス、子供服などもライナップに加わったばかりか、ベッド、椅子、テーブルなどの家具、食器、台所用品、皮革製品、文房具、装身具、陶磁器、漆器、身繕い用品も登場し、さらには香水、造花、旅行用品、靴、おもちゃ、キャンプ用品、スポーツ・ウェア、水着、貴金属というように、ブシコーが1877年に没した時には、今日、フランスのデパートで扱っているほとんどの品目が取り扱われるようになっていた(『デパートを発明した夫婦』鹿島茂)

ポイントは、お客さんの需要に応じて、供給(商品品目)が増えたということではないということです。コンセプトを提示して(供給)、需要が生まれたんですね。

まさに、「必要」ではなく、「欲望」を喚起されて購入するというスタイルです。

3-2.デパートの教科書

もちろん、この需要を掘り起こすには、教育というステップが必要です。提示したコンセプトに共感してもらう必要があるので。

デパートではこの消費者への教育というのが徹底されていました。アッパーミドルというのはかくあるべき」というのを教え込んでいたわけです。

それは、年間行われる、テーマに沿った大売り出しや、その他の催事などで提示される店のディスプレイもそうですし、「アジャンダ」という年間の予定表付きの手帳を無料で配布したこともそれにあたります。

この「アジャンダ」には、簡単に言えば便利手帳で、や年間のカレンダーはもちろんのこと、パリ及び近郊からボン・マルシェに来る方法や、セール時期、アッパーミドルのライフスタイルなどが書かれていました。

家計簿もつけることができ、生活していく上で便利な手帳だったので、ずっと手元に置いておいては、何度も見返すことで、どんどん教育されていったんですね。

さらに徹底していたのは、子供にまでそれが及んでいたことです。デパートには、毎月、子供用に無料で絵葉書をプレゼントしていました。

この絵葉書は毎月違ったものを配布しており、毎月デパートに来てくれることで、パリの名所シリーズとか、おとぎ話シリーズといったものをコンプリートできる仕組みでした。そりゃあ、子供に泣きつかれては、無料だし、来ざるを得ないですよね。

その他にも、画期的だったのは、ボン・マルシェが通信販売を実践したことです。とてもイラストと説明とで、非常に丁寧に分かりやすく書かれたカタログを希望者には無料で郵送しました。

その量は、膨大で1894年の冬のシーズンだけで、150万部を配りました。「ダイレクトレスポンスマーケティング-DRMの実践方法」で話した、DRMの原型ですよ。これは笑。

だって、このカタログだけで、「アッパーミドルのライフスタイル」に憧れを抱かせることになるのですから。

このカタログによる通信販売は、地方と外国の潜在的な需要を一気に顕在化させ、約30年で通信販売の売り上げは6.5倍の330億円にまで伸びたそうです。

3-3.従業員教育

さらに、ブシコーは従業員の改革にも着手しました。

というのも、「アッパーミドルを目指せ!」というコンセプトを掲げているのに、従業員がそれに見合うだけの人間ではなかったら、説得力がなくなってしまうからです。

まず、ブシコーは外観から変えていきました。新館5階には、従業員専用の化粧室と理髪店を設け、店員に「清潔さ」を要求するようになりました。これに違反するものは、即刻解雇したそうです。

さらに、服装のルールを定め、それに見合うだけの服装ができない者には、無償で制服を提供するという徹底ぶりです。

これだけで終わらないのがブシコーが天才たる所以です。ブシコーは店員向けの教養講座を無償で開きました。次は、内側からの改革ですね。

一流の講師を呼び、語学講座、文化、歴史、科学、文学などの定期的な講演会を開きました。その他にも、フェインシングやコーラスなど、アッパーミドルがたしなむような娯楽もできるように整備しました。

ブシコーは消費者だけではなく、従業員の教育も徹底することで、自分が掲げたコンセプトを実現し、ブランド化を実現させていったのでした。

まとめ

では、最後に今回のまとめをしておきたいと思います。

ブシコーは革命的な手法によって、「必要に迫られて買う」という行為のあり方を、「欲望を喚起されて買う」という行為に変えました。

ユニークで明確なコンセプトを掲げ、それを実現するのに必要なことを教育し、ブランド化させていたブシコーの手腕はまさに商売繁盛の天才でした。

では、今回は以上です。お疲れ様でした!

数十時間の集客が学べる動画を無料プレゼント!

今まで僕が積み重ねてきたブランド構築とWeb集客のノウハウを数十時間収録した動画を無料でプレゼントしています。是非あなたのビジネスにお役立てください。

いつ削除するかわからないので、興味がある方は、今のうちにゲットしてくださいね


コミュニティ集客クラブの詳細を見る

hp-banner

SNSでもご購読できます

The following two tabs change content below.
中江 翔吾
名前:中江翔吾。職業:デザイナー&Web集客コンサルタント。一流のデザイナーからグラフィックデザインを学び、フリーランスのデザイナーとして活動を開始。その後、インターネットマーケティングを学び、独自のネット集客の仕組みを構築。現在は、デザインとネットマーケティングの視点から「コミュニティ集客術」を提唱し、個人を始め中小規模のビジネスモデルを運営している人たちに集客の仕組み作りを提供している。
By 中江 翔吾 ビジネスコラム ブランド戦略 Share:

One thought on “商売繁盛の秘訣|デパートを発明したブシコーの革命的な手法

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

プロフィール
wp-side-pf

中江 翔吾 / Shogo Nakae
グラフィックデザイナー / Webデザイナー / コンサルタント
1991年3月生まれ。大阪府出身。

はじめまして!ブランドクリエイターの中江翔吾と申します。

「CREATE A BRAND」をコンセプトに、ブランド構築や集客を起こしていくためのデザイン制作(Web、グラフィック)とコンサルティングを提供しています。

このブログでは、Webマーケティングのことを基軸に、ブランド論やマインドセット、雑多なビジネスコラムなんかを配信していきます。

僕に興味を持っていただけた方は、TwitterやFacebookページをぜひフォローしてくださいね。

>>詳しいプロフィールはこちら<<

Twitter でフォロー